辻󠄀 正次 先生【専門分野:経済理論、電気通信や遠隔医療の経済評価】

スタンフォード大学でPh.D.を取得し、世界でも日本でも教鞭をとられてきた辻󠄀先生にインタビューしました。今では社交性が高い先生ですが、実は学生時代は人見知りだったとのこと。そんな先生が変わったキッカケをお聞きしました。

どんな学生時代を過ごされていましたか

高校生の時は、柔道をしていました。黒帯の2段です。身体は小さかったですが、「対外試合に強い辻󠄀」と異名をとっていました。とは言え引っ込み思案で、人前であまり話すのが好きではないところがありました。
将来は歴史学者か外交官になりたいと思っていました。京都で育ったので町自体が歴史の宝庫。町中至る所に教科書に載るような史跡があり、自宅は明治維新の鳥羽伏見の戦いの近く、新撰組などは曾祖父の話を母から聞かされました。ですので、歴史に興味をそそられ、高校の同級生からは「歴史といえば辻󠄀」といわれるほど勉強しました。
また、外交官というのは、海外に行きたいという思いが強かったからです。小学生の頃の1960年代は、テレビで「ララミー牧場」などカウボーイものや、「パパは何でも知っている」などアメリカのホームドラマが放送されていました。テレビを見ながら、アメリカの日常生活に驚きや憧れを持っていました。
大学進学にあたり法学部、文学部、経済学部のどれを志望するか迷いましたが、受験の段階になって経済学部に進学することを決めました。進学した京都大学では、ゼミの恩師のおかげで益々経済学に興味をもつようになりました。当時の教授は、旧制高校のご出身が多く、講義だけでなく、プライベートでも学生と交流を持つのが普通でした。先生たちは、ゼミ生がご自宅に行っても夜遅くまで一緒に語り合って下さいました。その中で、教科書に載っていないエピソードや考え方を教えていただき、経済学は面白いと身をもって体感しました。大変貴重な時間だったと思います。

高校時代に柔道2段でした。

今の先生から引っ込み思案なんて思えないんですが、どこで変わったんですか

転機は留学です。大阪大学の大学院に進学後、博士取得のためアメリカのスタンフォード大学に留学しました。初めての海外、それでも何か得ようと必死でした。とにかく、こちらからどんどん会話しないといけない状態で、引っ込み思案ではついていけない、後に残されます。また米国人はジョークが上手ですから、冗談の切り出し方、タイミング、会話の間の取り方など学びました。その積み重ねでこんな性格になりました(笑)

留学で一番苦しかったことはありましたか

ずばり英会話です。大学生の頃から留学を視野に入れていましたので、語学学校に通い勉強していました。自分の英語力に自信を持って留学しましたが、アメリカに行くと全く大丈夫ではありませんでした。
授業は専門用語を覚えていれば、同じ経済学ですから内容にある程度はついていけます。ですが、学外の特にパーティになれば、いろんな話題が飛び交うわけです。アメリカというところは何かとパーティが多い。向こうからの質問されるのですが、その質問内容がわからない。なので、会話を続けるために自分から質問をしますが、その返事が分かりませんでした。仕方なく次の質問をしますが、これも回答が分からないまま別の質問をする、この繰り返しでした。
この苦手を克服したきっかけは、たくさん話すうちに、「話し相手の知識は自分とそんなに変わらない。英語が話せるか話せないかの違いだ。」と気が付いたときでした。その時から英語が話せないから悔しい、恥ずかしいというコンプレックスがなくなり、自信をもって話せるようになりました。アメリカ留学の1・2年目は話すのがやっとで、3年目に会話の中身がおおよそ分かり、4年目で、何が分からないかが分かる状態にやっとなりました。

スタンフォード大学(大学院博士課程)留学時の様子。指導教官と同級生との写真(写真右上が辻󠄀先生)。

アメリカの大学生活はいかがでしたか

授業を受ける前に、論文や資料を読み込んで予習することが求められました。授業は学生が読んでいることを前提に行われます。学生はたくさんの論文を読み、そしてさらに復習をしないといけません。例えば、文学の授業では、ロシアの作家トルストイが著した長編小説「戦争と平和」の本を1回の授業で終えてしまうといった感じです。時間を見つけては手当たり次第読んでいましたが、追いつかないほどの量を読まねばならず、下宿先の床には講義ごとに論文や資料の山ができていました。
そういった環境で学生たちは、月曜から金曜までは寝る間を惜しんで必死に勉強し、土曜日になると解放的な気分でパーティーを楽しんでいました。そして日曜になれば芝生やプールサイドでリラックスして、次の週に備え身体や心を休めていました。私もオンオフの切り替えが必要だと感じ、試験の後は同級生や友人たちとのパーティを楽しみました。また、学期間の休暇を使って、ロサンゼルスやカナダにある歴史的に有名な場所を旅行しました。留学中、勉強や研究は厳しかったですが、恩師、同級生、ホストファミリーなど、多くの方々と出会ったことがその後の糧となりました。

留学時には、あこがれていたフォードのマスタングに乗っていました。

スタンフォード大学で印象的だったことを教えてください

スタンフォード大学は、教授も学生も世界中の天才が集まって来ます。教えてもらった教授の内、なんと4名がその後ノーベル経済学賞を受賞されました。そのような先生たちの議論には我々についていけない。先生同士はお互いに理解されていますが、我々ではロジックの飛躍が埋まらないから分からない。世界で最先端を歩んでいる研究者は本当にすごい迫力です。そんな人たちが人種や国籍を超えて集まってくるアメリカの底力を体験できました。
卒業してからも、学会や様々な分野でチャレンジし、活躍している同級生がいます。いまでも、世界中に散らばっている友達が訪ねてくれるし、私も会いに行きます。大学院時代の友人は卒業しても大事な仲間です。

今の専門分野は何故選ばれたのですか

もともとは経済数学が好きで、経済の純理論を専攻していました。ですが、私にとって純理論の数学があまりに高度化しすぎたため、80年代に経済学の応用分野に変更しました。結果的にこの変更が私の研究の転機となりました。現実の問題を経済学から分析するというスタンスに変えたのですが、経済理論を学んだ上に応用経済学の研究をすることで、私の分析の特色ができました。
例えばITに関しても、当時は工学の関係者による研究が主流でした。経済学の切り口でITについて研究する方がそんなにいない時代でしたが、そんな中「ITについて経済的分析をして欲しい」と、かつての郵政省から声がかかりました。取り組みの中で、ITを活用している地域や企業をインタビューし分析しましたが、その有用性・重要性に気付き、結果的に研究することにはまってしまいました。これが後に私の専門分野となる電気通信や遠隔医療の経済評価につながります。ITや医療の経済評価の分野を切り開いたと自負しています。

授業ではどのようなことをされていますか

神戸国際大学で教員をするまでの約20年間は、大学院で教えてきました。学部の学生さんに教えるのは少し異なりますので、工夫している毎日です。今まで国内外で数多くの調査・インタビューをしてきたので、経済やビジネスの現場での経験を講義の端々に織り込んで話しています。経済理論の授業でも、生きた実際の事例を交えながら説明しますと、とても興味をもって聞いてくれます。理解してもらっているかどうかは、顔つきや目つきで分かります。理解してもらったときは、うれしく教員冥利につきます。これが快感で、この歳になっても一生懸命教えています。

学生のみなさんに向けてメッセージをお願いします。

学習に対する姿勢ですが、目的意識をもって取り組むことと、何にでも興味をもつ好奇心がとても大事です。新しい発見や気づきは実はどこにでも転がっているものです。何か疑問に思ったことを「自分で調べてみること」や「口に出して聞いてみること」は重要です。意識しながら生活して欲しいと思います。
そして将来は、社会に役立つこと考えていける人になって欲しいです。大学生活の中で、人生の目的を見いだし、それに向けて日々精進していくことで道が開けるのではないでしょうか。昨日より今日、今日より明日と、向上する志をもって下さい。人生に成功するかは、持続する志をもてるかどうかにかかっています。

(記事内容は取材当時のものです。)

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