学院創立者八代斌助師父
逝去50周年特設ページ
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学院創立者逝去50周年記念式を行いました(2021年10月15日)
逝去50周年記念式 神戸教区小林主教説教
院創立者ミカエル八代斌助主教の逝去50周年(2021年10月9日)
八代学院創立者ミカエル八代斌助主教の逝去50周年の説教を始めるにあたり、逝去25周年に出版された永田秀郎著「跪くひと 八代斌助」より引用したいと思います。
八代斌助主教の父、八代欽之允は、明治26年、23歳の時、秋田県から北海道勇払(ゆうふつ)郡鵡川(むかわ)村へ小学校長として渡って行きます。鵡川は苫小牧から東へ約30キロの所です。八代一家はそこで不幸な出来事に見舞われ、明治29年5月平取(びらとり)村の聖公会の教会にいるジョン・バチェラーを訪ね、欽之允は洗礼を受け、信仰に入ります。そしてバチェラーより信仰のために働くように勧められ、欽之允は、小学校長の職を投げうち、函館のアンデス宣教師の経営する神学塾で学ぶことになります。将来、斌助青年もここで学ぶ時、お世話になる伊東松太郎師と共に学びます。
欽之允と妻ヨシの間には、長女ツネの後、長男格太郎が生まれましたが、一年数か月で亡くなります。次に、シマという女の子が生まれ、欽之允は男の子を望んでおり、明治33年西暦1900年3月3日斌助が生まれます。この年、欽之允(30歳)は、伝道師になり、帯広の少し南東にある、十勝国豊頃(とよころ)村茂岩に赴任し、3年間を過ごします。その後、釧路国厚岸に赴任します。斌助4歳の時です。「厚岸聖公会」の教会は信徒数が百人近くいて、欽之允は、力強く感じられました。この年斌助は、厚岸尋常小学校一年生に入学します。三年生には信徒で将来、三和銀行頭取となる渡辺忠雄がいました。
明治43年欽之允は、釧路聖パウロ教会に転勤し、斌助は釧路第三小学校五年生に転校しました。そこで、人生の親友、中川商店の三代目となる中川久一(のちの久平(きゅうへい))と出会います。二人とも相撲が好き、よく遊ぶ。久平は、お金持ちでしたが、まったく偉ぶらない。良い友です。このころ欽之允は、斌助に牧師になることを期待しますが、斌助は、関取になって横綱になることを夢見ていました。
大正2年、釧路中学が開校。志願者132名、50人が合格という狭き門でした。斌助、久一も無事合格。5年を過ごします。八代家は貧しく、斌助は卵を売り歩いていましたが、中川の母が、高い値段で買ってくれ、八代家は大いに助かります。
斌助がのちに言いますが「在校生中一番の金持ちが中川で、一番の貧乏人が俺であったが、貧富の差によってくる劣等感などは一つも抱いていなかった。」と。二人の友情は生涯変わることはありませんでした。
この中川は、夜逃げのようなこともありましたが、晩年、釧路市教育委員長にもなり、永田秀郎の釧路新聞社から出版した一冊目が「中川久平」であり、二冊目が「跪く人 八代斌助」です。
大正6年斌助は釧路中学を卒業し、教会のオルガニストに大失恋をします。そして、礼拝堂で一日の大半を過ごしていました。漠然とではありましたが、「主、イエス」についても考えました。斌助にはよくわからないのだったが、それをわかりたいと思い始めました。一生かかってもわからないことをわかろうとして、生きてゆこうと思いました。それが人を救い、自分も救われるかもしれない、そう考えると、斌助は、急に目の前が明るくなって来きました。
大正6年、斌助は釧路中学を卒業し、函館のCMS代表のラング宣教師の下、函館伝道学校で、一年間実修します。父欽之允の先輩・伊東松太郎にお世話になります。
ある時、伊東司祭と宣教師ラングに斌助青年は自分のことを説明しています。「僕は、まだ牧師になると決めているわけではありません。父が牧師ですから職業として継いでほしいと希望しているだけです。ぼくは職業としての牧師になるのはいやです。本当に神を信じる意味が分かった時、牧師をえらぶかもしれません。しかし、牧師にならないとしても一人の信者として生きてもいいじゃないかと思っています。」と。
この言葉を聞いて、ラングは軽く笑いましたが、自分の目の前に、神について真剣に思い悩んでいる一人の少年を見て、将来にわたっていつまでも神との関係を保ち続けることができる男だと、ある心の通じ合いを見つけました。
ラングは、斌助を指導する中で、東京に出してやりたいと思うようになり、伊東松太郎に相談します。
「斌助を東京の立教大学へ出して勉強させたらどうかね。あの若者はもっともっと大きい場を与えてやるべきです。」伊藤は深くうなずいて、「あの男はまだ迷っています。」とだけ答えます。すかさずラングは、「だから東京へ出してやるのです。もっともっといろいろな人間とふれ合って、いろいろな世界を見て、いろいろなものの考え方を知らなくてはならないと思うのです。その意味から、早く大海へ放ってやるべきです。そうすることで彼は自分を発見するでしょう。その時、本物になります。私はそう見ています。」この言葉を聞いて伊東はうれしかった。ラングが斌助に期待していることが分かったからです。こうして、斌助は、立教大学予科に入学します。大正7年1918年4月のことです。
斌助は、立教大学予科に入学しましたが、授業は退屈で仕方がありませんでした。しかし、聖公会神学院で、ハーバート・ハミルトン・ケリーが教会史を教えており、「キリスト教は宗教ではない。福音である。」という言葉は、斌助の心に強く残ります。この後、ケリーはイギリスに帰国し、ケラム神学校を創立します。そして、斌助は7年後にケリーの下で勉強することになりますが、彼にとって一度の貴重なケリーとの出会いでした。
立教の授業は斌助にとってつまらない。斌助は両国の出羽の海部屋に通い、相撲にうつつを抜かす生活になります。大正8年9月29日、母ヨシ永眠44歳。大正9年斌助は家計を助け、金持ちになるべく、青島に渡ります。あてもなく、魚の行商をしたりしますが生活できず、たまたま聖公会の教会に入ります。その教会の牧師が病気のため英国へ帰っており、教会の世話をしていたエドワードと出会い、二人で聖書を読み、祈りをささげます。エドワードの仕事は、ロンドンの証券取り扱いの出先でした。エドワードは、そこの所長でした。斌助は、そこで働き口を得て、神の助けと思い、感謝を献げます。そして斌助はこの教会で礼拝をし、聖書の講義も行い、クリスマス礼拝も行ないます。しかし、エドワードは斌助に帰国を勧めます。「君は、日本に帰りなさい。青島は君の居るようなところじゃない。もっともっと神に仕える勉強をしなさい。そのためにはここにいてはならない。」斌助は、その忠告を聞き、帰国します。大正10年のこと、帰国した斌助は、旭川歩兵第27連隊に一年志願兵として入隊、一年を過ごします。
八代欽之允は、北海道に来て30年になり、リュウマチは癒えず、南国への転勤を望んでいました。そこへ神戸地方部の傍ら、北海道地方部の管理監督(現在の主教)になったヒュー・ジェイムス・フォスが札幌に来た時に、欽之允は、南国への転勤を願い出て、フォスは快く受け入れ、神戸地方部、高知聖公会への転任が決まります。
大正11年1月、父欽之允が高知に転勤。斌助は、父と同行し、神戸教区主教フォスに会います。フォスは、74才。フォスは、斌助の気おくれしない、あっけらかんとしたところに引かれ、あれこれと斌助と話をしました。あと一年で帰国することに決めていたフォスは、将来の日本聖公会を背負う人物を見つけ出したいと思っていました。フォスは、斌助と話して、この男の率直なところがまた気に入りました。今まで出会ったどの青年とも違って、自分を相手によく見せようなどという小賢しい取り繕いをしない。フォスは斌助がまだ本当に神と出会ったことがないと、はっきりわかりました。しかし、神を否定しているのでもない。神への懐疑を隠さないでいるところがむしろ明快で好ましい。この男は神への畏れがまだわかっていないのだとフォスは思います。そしてフォスは、斌助と話をする中で、久しぶりに老いた自分に血がみなぎってくるような興奮にとらわれます。
大正11年10月、斌助は幸運にも伝道師補に任命され、姫路顕栄教会に勤務することになります。フォスは、神戸聖ミカエル教会の長老(現司祭)竹内宗六を呼んで人事の説明をします。「私は八代という青年にチャンスを与えてやりたいと思います。」竹内長老は、「八代の説明は結構です。よく存じております。」と答える。これまでの八代斌助は、非難されても弁明できるものではなかった。立教大学校を無届のまま退学して青島へ行ってしまう。その上、青島では勝手に信者を集めて礼拝の司式をするなどと、挙げればきりがない無法を繰り返してきている。それでもなお、あの青年のどこを見込んだというのか。フォスは説明します。「いま一人の青年が、神を信じようとして苦しんでいます。いや、信じているから悩んでいるのかもしれない。彼の3年間は、神について悩みながらも、もっと別な生き方はできないのか。それが見つかったら、神へ仕えることをやめてもいいと考えて生きて来た。これは貴重です。彼はもう信仰の道を進むよりほかないということを自ら知り始めています。いまこそ、手を差し伸べてやる時です。」と説明すると竹内は深く頭をたれて「監督のご意志に心から賛同いたします。」と低いが力強い声で答えました。
斌助は、姫路顕栄教会の伝道師補になりました。生活の安定を求めたい気持ちが強く働きました。子供のころから牧師になることが決められていて、それが理由もわからず押し付けられることで、やみくもに反発してきました。しかし、今はどうしても断ち切れない宿命なのかという思いに変わってきつつあった。斌助は姫路で勤勉に仕事を行い、教会を訪れる信徒たちに心の安らぎを与えていました。斌助についての好意的な噂はフォスの耳にも入りました。フォスはそれを最後の贈り物のように喜びながら監督の任を終えて、イギリスに帰って行きました。
大正12年1月吉日。秋田の分家衆から紹介された許嫁の民代と斌助は結婚します。斌助23歳の時です。司式は父欽之允。斌助は結婚生活のすばらしさを発見し、いつまでも大切にしなければならないと民代と語り合います。年があらたまって、長男欽一が誕生します。
フォスがイギリスに帰り空席となっている神戸地方部の監督に、ジョン・バジル・シンプソンが選ばれて、着任することになります。
永田秀郎曰く「八代斌助がバジルと出会ったことは、彼の生涯を左右する運命的な出会いといわねばならない。人は短い人生の中で何度かその岐路に立たされるもののようである。斌助がそれをあらかじめ読めていたのではない。ただ、この男のもつ何人についても誠実に対応する生き方が、他との差となってあらわれたというだけなのかもしれない。」と。
大正14年。25歳になった斌助は、南東京地方部監督のヘーズレットから執事按手を受けます。
同年、11月25日バジルの乗った船が神戸港に入って来ます。斌助は、45歳のバジルをキャビンまで迎えに行きます。バジルは、イギリスを出る時、フォスから斌助が将来の神戸地方部の中心人物たりうるということを聞いていましたが、決定するのは自分でしかないと思っていました。
斌助は一生懸命仕事をします。聖ヨハネ教会の建築でもバジルの納得する仕事をして、ほどなくバジルは斌助を長老(今の司祭)に叙任します。そうしたバジルの斌助に対する対応を面白く思わない神戸教区の古株の長老がバジルに話します。
「八代に、好意的に目をかけておられることは、だれしも感じている印象です。彼が一生懸命働いているのは立派ですよ。しかし、彼は立教大学を中途でやめた男です。それから三年というもの、彼は信仰の道を捨てたんでっせ。」それに対してバジルは言います。「そのことについては、斌助から聞いて知っています。あの男を弁護するつもりはありません。ただ斌助の三年間のブランクは決して信仰の放棄ではなかったと信じています。大学中退、青島に行ったこと、兵隊さんになったこと、中学の先生になろうとして免状をとったこと、みんな知っています。斌助はみんな私に話してくれました。その間にお母さんをなくしました。貧乏な中で、お母さんをなくした悲しみを、なんとかして克服しようとしました。斌助は神様を求めていました。神様の声を聞きたかったのです。斌助は新しい生き方を求めて一生懸命頑張っているんです。そこが偉いと思うんです。」と、バジルは答えます。
バジルは思いました。この上は、斌助を一日も早くケラム神学校へ送り出して、神へ仕える者の学ぶべきことを身につけさせたい。その勉学を修めて日本に帰ってきた時、八代斌助は日本聖公会で全く違った立場に立って仕事ができるようになるだろうと思った。
そして、バジルは斌助に言います。「ヤシロ、ケラムへ行きなさい。」、「ヤシロ、私はあなたを信じています。期待しています。」バジルは斌助の手を握った。この男が日本聖公会の大きな屋台骨を背負って歩くことになってほしいと祈りをこめていたのである。
八代斌助青年は英国に渡り、二年間ケリーのもとで学びます。そして、昭和4年、1929年帰国。29歳でした。この後の八代主教の大きな働きについては、皆さんよくご存じと思います。
ただ、本日、みなさんに覚えておいていただきたいことは、函館のラング宣教師。青島で日本帰国を勧めてくれたエドワード氏。青年斌助を理解し大きな世界へ送り出してくれたフォス監督とバジル監督。
これらの人たちの理解と期待、祈りによって斌助青年は大きく成長できたということです。
今回の説教を考え始めた頃から一つの言葉が、私の心に浮かんでいました。それは今年、逝去30年を迎える斌助主教の長男八代欽一主教の言葉です。欽一主教が逝去された1991年、5月19日、私も八代智理事長も英国へ留学中でした。そして、その逝去の日の次の日、英国南部のチチェスターにいた私がオックスフォードのセント・スチィーブンスハウスにいる八代司祭のところに遊びに行く日でした。しかし、八代理事長は欽一主教の葬儀のため帰国し、私はオックスフォードへ行き、他の司祭が私の世話をしてくれました。
その八代欽一主教が、よく私たちに教えてくださった言葉です。「ええか、小林。キリスト教というのは、悪い奴の明日を期待する宗教じゃ。」と言われていました。八代欽一主教から見ると私たちは悪い奴だったと思います。それを欽一主教は、期待してくださって、英国への留学の道筋をつけて下さいました。そして私たちは貴重な体験ができました。また欽一主教がよく言われた言葉「愛と祈りと忍耐をもって若者を育てるんじゃ。」を思い出します。勿論、斌助青年が悪い奴だったということではありません。そうではなくて、普通の人には斌助青年のすばらしさは、なかなか見つけることができなかったのでしょう。それでも斌助青年の明日を信じて、期待してくださった方々によって斌助青年は大きく成長できたのです。
八代斌助主教の逝去50周年の記念式を行っている私たちが、私たちの周りにいる青年たちの明日を期待しなければならない。「キリスト教というのは、悪い奴の明日を期待する宗教じゃ。」という言葉をもう一度思い出し、肝に命じたいと思います。そして、そのことが八代斌助主教、八代欽一主教が一番喜んでくださることであって、八代学院に、また私たちの神戸教区に、脈々と流れている大切な精神ではないかと思います。
願わくは、逝去50周年を迎えたミカエル八代斌助主教、30周年を迎えた八代欽一主教の魂、よみがえりの主の憐みによって安らかに憩わんことを。アーメン。
50周年記念式典準備委員会発行資料(監修 佐藤信友)
八代学院創立者 八代斌助師父
学院創立者ミカエル八代斌助逝去五十年記念式典準備委員会
発行にあたり
準備委員会開設にあたり、学院創立者八代斌助師父が聖職者として、教育者としてどのような理想をもって苦難を乗り越え本学院を設立されたか運営委員の皆様に知っていただくために法人史料室職員 佐藤信友氏の協力で本記録を作成した。
運営委員会統括責任者
難波 一安
学院創立者八代斌助師父のプロフィール
八代斌助師父(1900〜1970)は、大正10年に立教大学予科を修了後日本聖公会神戸教区伝道師補に任命されて、昭和45年10月10日ガン性腹膜炎で永眠するまで牧師としてキリスト教の宣教に従事されてきた。その間、昭和2年に司祭となり、昭和3年には英国ケラム神学校に留学、昭和15年に神戸教区補佐主教となり、その後、九州教区、朝鮮聖公会、大阪教区などの管理主教を歴任、昭和22年に日本聖公会主教会議長となり、首座主教の地位にあった。
戦時中に、軍部や政府の圧力によってプロテスタント系各派とともに日本聖公会も日本基督教団へ合同することを強要されたさいに、八代師父が種々の迫害をかくごで日本聖公会をまもり通したことは有名である。
戦後はいちはやく教会再一致をめざす、いわゆるエキュメニカル運動の先鞭をつけ、昭和23年には連合軍総司令官マッカーサー元帥の特別の許可を得て、戦後、初の公式の海外波航の民間人としてロンドンで開催された全世界の聖公会の会議であるランベス会議に出席したのちに、アムステルダムで開かれた世界教会会議(WCC)に出席したりした。その後、日本キリスト教協議会(NCC)副議長、日本聖書協会副理事長を永年つとめ、最近では万国博キリスト教館会長として活躍するなど、エキュメニカル運動への貢献か大である。また戦後初めての渡航のさいには、イギリス国王ジョージ六世あての天皇のメッセージを伝達したし、有名なテニスのデヴィスーカップ争奪戦への日本の復帰や講和会議の下準備などにも尽力した。
昭和24年の戦後二度目の海外渡航のさいには、アメリカでワシントンの極東委員会のマコイ議長の依頼をうけて、帰途にフィリピンや香港の日本人戦犯を訪問したりしている。さらに昭和25年には当時まだ対日感情が好転していないオーストラリヤやニュージーランドへの訪問旅行をして、親善使節の役割りをはたした。その後もたびたび外遊して、民間人としての立場から日本の国際的地位の向上につとめられた。もっとも、昭和32年にときの岸首相からイギリスの水爆実験中止を要請するために特使として渡英することを懇請されたが、「宗教家は政治家に指図されるべきではないとことわり、代わりに当時立教大学総長の松下正寿氏を推薦した。
他方、八代師父は教界においてはまったくの型破り的専在で、往年は酒豪としても知られ、世俗的な庶民性を身につけた、いわゆる牧師という通念からはほどとおい人物であって、町内会の夜警をひきうけたり、学校のPTAで活躍したり、みずから左官をやったりなどの勤労奉仕マニヤであったりした。それとともに、教界だけでの活躍にとどまらず、11人の子だくさんの関係もあってか、教育にも異常なまでの情熱をいだき、聖公会系の各地の大学、高校、中学、幼稚園などの理事長、理事、院長などを兼ねていたことは、特筆にあたいしよう。昭和24年にはカナダのトロント大学、昭和33年には英国のオックスフォード大学より、それぞれ名誉神学博士を授与されている。その他の主な肩書きは次のとおり。
日本聖公会首座主教、日木聖公会神戸教区主教、聖公会神学院理事長、聖路加国際病院理事長、立教学院理事長、松蔭女子学院理事長、桃山学院理事長、八代学院理事長、聖跡加看護大学理事長、国際キリスト教大学理事、聖ミカエル保育園理事長、オリンピア幼稚園園長、ラファエル幼稚園理事長、鈴蘭台聖ミカエル幼稚園園長、聖心幼稚園園長、神戸市教育委員、日木聖書協会理事、ボーイスカウト日本連盟相談役
著書は「主イエス」『九十九の羊は』「聖書について」「戦後の世界を巡りて」 『ああ濠州よ』八代斌助師主宰「ミカエルの友第百八十三終刊号より」
八代斌助師父と教育活動
Ⅰ 関係学校における思想と行動
教区主教が関係学校法人の理事長、院長などの役職を務めるのはそれほど珍しいことではないが、斌助師父が理事長、学院長、校長などを務めた学校は日本聖公会総裁主教、首座主教という立場を考えたとしても多かったといわなければならない。立教学院、桃山学院をはじめ、神戸教区だけでも松蔭女子学院、八代学院、ミカエル国際学校に加えてオリンピア幼稚園など、並行して数多くの学園において斌助師父はこれらの運営と教育にあたっていた。しかも、それぞれが大学、短期大学、高等学校、中学校など複数の学校を擁していたことから、学校に関する職務だけでも斌助師父の毎日は多忙を極めていた。
斌助師父の各学校に対する想いは、それぞれの学校の校風、いわゆるスクールカラーや設立の経緯などの事情によって、また斌助師父自身の関わりによって異なっていたとしても不思議ではない。しかし、その一方で学校における教育や学校の経営に関しては、愛と希望、奉仕と感謝など、キリスト教の根底に流れるいくつかの共通点も見出すことができる。
2 キリスト教の理念
まず、第一にあげておかなければならないのは、聖書について学生に語り、神の愛を生徒に説く牧師としての想いであろう。キリスト教学校としての本質を学校の運営の第一に掲げ、教職員のあり方についても、信仰に支えられた学長、校長ら首脳部が率先して聖書に通じて宗教教育を推進するとともに、教職員が一つにまとまって学校全体で考えて実践するように取り組むことの重要性を示した。
そして、斌助師父は何よりも桃山学院、松蔭女子学院あるいは八代学院と、いずれの学校であるかを問わず学生、生徒がキリスト教概論の講義や聖書の授業を理解しようと真摯な態度で臨んだことを心から喜び、新しいキリスト教の講義を作成した。さらに毎年それぞれの中学校、高等学校で行われる春と秋の宗教週間には、斌助師父は忙しい職務の合間を縫って講話を続けた。
また教室では質問を受け、チャペルでは語った。ことに、松蔭女子学院大学では自らが毎週カレッジアワーを行い、神が不在の教育の場といわれた時代にあって、多くの学生が参加し授業もよく聴いた。八代学院大学の学生たちに対しては話し甲斐があり、教師というものを幸福だと感じていた。八代学院高等学校の多くの生徒たちが聖ミカエル大聖堂で洗礼を受けたことなども、ミッションスクール、クリスチャンスクールにおける斌助師父の働きの証しであった。
これらは、学校や教会が学生、生徒たちに対して礼拝への参加や信仰を強く勧めることがなくても、彼らや彼女らが導かれてその道を選んだ末の結果であった。桃山学院大学では、このようにあるべきだとする斌助師父の意向を反映したカリキュラムが、キリスト教関係の科目を必修科目として履修を義務づけるのではなく、自由に履修する選択科目として開設されていた。
3 奉仕の精神「聖公会垂水センター」
次に、教会との関わりで忘れてはならないのは奉仕の精神であろう。ミカエル教会をはじめ、ミカエル国際学校や幼稚園なども聖職や信徒の勤労奉仕に支えられていたが、八代学院高等学校、八代学院大学の礎となった日本聖公会垂水センターの建設をはじめとする「垂水の山」の開拓と整備には、貴い勤労奉仕が欠かせなかった。
後に八代学院の原点となる聖公会垂水センターは、1951(昭和26)年の秋に住民たちの共同生活の農村センターとして始まった。当初は電気も水道もなく、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が普及した時代に、電灯がともるまでに約10年間を要した。当時のセンターの住民たちにとってはゴルフ場の井戸まで行って水を汲み、ランプのホヤを磨くことが日課であった。斌助師父は、これらインフラの整備を行政などに交渉するところから開拓を始めた。資材を運ぶための道路も奉仕者たちとともに自らの手で整備し、建設の途中で一部の建物が火災によって焼失するという困難に遭いながらも、多くの人々の勤労奉仕によって建設が進められた。斌助師父は、日本の社会に定着する勤労奉仕の一つの方法として、尊い意思をもって参加する若者たちが資金を負担する必要がないように、外部から資金を集めるためにも奔走した。
聖公会垂水センターでは、聖公会のメンバーを中心に集まったこの地に住む人々が、酪農と農業を営みながら、朝は静かな祈りに始まり、穏やかな祈りで夕べを迎えるという日々を送っていた。人々の生活の地としての「垂水の山」には、「ミカエル館」、「リー館」、「バートン館」、「オグレスビー館」などと名づけられたいくつかの小さな宿舎と並んで、お年寄りたちが暮らす養老院として「アリス館」も建てられていた。また、祈りはここに住む人々が捧げただけではなく、近隣の地域から多くの子供たちが日曜学校に通ってきたように、まさに教会を中心としたコミュニティーが形成されており、斌助師父は人々とともに「垂水の山」で過ごす祈りのひと時を喜びに満ちた意義の深いものと感じていた。
当時の聖公会垂水センターは人々の宿舎や毎日の礼拝が捧げられたチャペルなどに加えて、農村センターとして野菜畑などのほかに、乳牛5頭と鶏200羽を擁する牛舎や鶏舎などが設けられ、野菜や鶏卵、牛乳などは人々の質素な食卓に捧げられるほかに、近隣に出荷されることもあった。このようにして、いわゆる「垂水の山」の農村センターとしての働きは、海を渡ってブラジルで活躍する農業青年やキリスト教の愛によって育まれた高校生を教育するという斌助師父の夢と、ここに集う人々の生活を支え続けることとなる。
人々が集って暮らすことに加えて、逞しく活躍する若者たちを「垂水の山」で育てたいという斌助師父の思いがあったため、この垂水センターには後にユースホステルの役目を果たす建物も建設され、聖公会の関係学校の学生や生徒を中心とした数多くの若者たちがキャンプに集まり、貴い勤労奉仕に汗を流し、お互いに交流を深めるようになっていった。
4 勤労奉仕(ワークキャンプ)
「垂水の山」では学生たちのフークキャンプも春休みや夏休みを利用して数次にわたって開催されたが、例えば1960(昭和35)年の八月に開催された日本聖公会垂水センターにおける勤労奉仕は、聖公会関係学校から立教大学、桃山学院大学、松蔭女子学院大学の学生たちを中心に、ミカエル国際学校やアメリカからの参加者も迎えて、合計約50名の盛大な国際ワークキャンプとなった。
斌助師父自身も、教会での執務や牧会などで忙しいなか、自ら陣頭指揮を執って真夏の炎天下に汗を流すだけでなく、建設資材のレンガやセメントなどの調達・運搬、食材の買い出し、炊き出し、さらには学生たちとの礼拝や講話などと働き、奉仕を神に捧げて感謝のうちに夏休みを過ごした。
1963年夏の国際ワークキャンプは、桃山学院大学、平安女学院短期大学の学生たちをはじめとして、総勢でおよそ80名が参加する大世帯になった。斌助師父によるキャンプへの参加の呼びかけは、聖公会の各大学・短期大学などの学校に対して行われたが、参加者には「学校でこの国際ワークキャンプ参加者募集のポスターを見たときに、理由や動機について何かを考える暇もなく、とにかく私はこのキャンプに行かなければならないのだ、と思って来ました」と垂水の山に駆けつけた女子学生もいた。シャベルを持って泥だらけになって力仕事に精を出し、自炊のために交代で炊事場に立って数十人分の食事を作ったのは、男子学生も女子学生も全く同じで区別はなく、そこには一つになって働く若者たちの姿だけがあった。
さらに、この奉仕の精神は学校行事においてはバザーという形となって実現されて 自らが八代学院高等学校を設立するにあたって資金を募る際にも、一人ひとりが一枚ずつお金を出してレンガを提供し、また一人ひとりが奉仕によって一枚ずつそのレンガを手で積み上げるようにして学校を建てることが大切だと考えていた。そして、たとえお金や力がなくても、信仰をもって神に祈ることで学校の建設を導いて欲しいと訴えたのである。
5 経営者としての働き 民主的な学園を目指して
斌助師父は教育者であると同時に、多くの関係学校の経営者でもあった。早朝の飛行機で大阪から東京へ飛び、立教大学、文部省、私学振興財団などでの複数の会議に出席して、最終便の飛行機で大阪へ戻る。ミカエル教会へ帰ったら深夜から原稿を書き始め、いくらか眠って翌朝は聖餐式の後で学校へ赴き講話を聞かせるという毎日だった。交通機関や通信手段が発達していない当時を思うとその仕事ぶりは信じ難いほどであり、まさに多忙というよりも激務の日々だったといえよう。
斌助師父は経営者として人事、財政の課題をはじめ、待遇改善を要求する学校の教職員労働組合との団体交渉など、数多くの問題の解決にあたらなければならなかった。教職員の勤務、労働条件に心を配り、研究や教育に専念できるように待遇を整えるように努力を続けつつも、理事会としての立場から教職員の理解がなかなか得られないことに苦悩を覚えることも多かった。しかし、学校の経営者として教職員労働組合の重要性を十分に認識していた斌助師父は、健全で新しい学校を作るために教職員労働組合は不可欠であるとして、困難な問題をめぐる話し合いにも積極的に応じていた。学校の教職員は聖職者か、それとも労働者か、という問いかけに対して斌助師父は、キリスト教の精神を体現する学校に奉職することの貴さを認めながらも、人間として、労働者として逞しくあるべきだと教職員たちを暖かく励ましていた。
さらに学長、校長の公選制など学園の民主的な運営に関する問題は、慎重に見極める必要があるとしながらも前向きに理解を示し、時代の向かう先を確かに感じ取ることのできる経営者でもあった。斌助師父が理事長、学院長を務めていた桃山学院では、1968(昭和43)年に桃山学院高等学校・中学校の校長選挙規定の整備を進め、1969(昭和44)年4月に当時としてはきわめて珍しかった初の公選による校長が誕生している。
一方で、いわゆる学園紛争に端を発して全国に広がった学生運動が隆盛を極めた1960年代後半には、他の大学と同様に立教大学、桃山学院大学、そして八代学院大学でも、大学民主化や政治的要求を掲げた学生たちによる校舎の封鎖や授業のボイコット、ストライキが発生した。斌助師父は学生運動に身を投じる学生たちについて「彼らは現代社会の痛みを覚えているのだから、自分たちの位置を教えて、進むべき方向を示す指導者こそが必要だ」と考えていた。学園紛争の解決に向けて学生たちと粘り強く対話することもあったが、同時に「学生たちには今のうちに勉強することを教えなければならない」と、心を痛めていた。
6 桃山学院での働き
斌助師父が携わる桃山学院における経営の課題、将来の展望は、戦後間もない頃から大学の設置や学部の新設など、発展の方向に目を向けた積極的なものだった。進学率の上昇や受験人口の増加など社会的な背景に基づく経営だけではなく、キリスト教主義の学校の使命を果たし、一貫教育の実現を目指して拡大を進めた。桃山学院で謳われたキリスト教精神に基づく人格教育、国際的に活躍する人材の育成などは、単なる標語にとどまることなく、日本における聖公会の宣教100年を迎えてのミッションスクールとして、斌助師父が掲げた大きな理想であった。
1956(昭和32年11月に桃山学院の理事長に就任して以来、新しい校舎の建設にはじまる発展への道程は、中学校や高等学校の充実だけでなく、大学の開設を目指したものであった。当初は英文学科と宗教学科を擁する文学部の設置を計画していたが、社会的な要請や保護者の要望などから1958(昭和33)年9月に大学の設置を申請し、1959(昭和34)年1月に経済学部の認可を受けて同年4月に桃山学院大学を開学している。その後、1965(昭和40)年9月に社会学部の設置を申請し、新キャンパスとともに翌1966(昭和41)年4月に新しく社会学部をスタートさせた。
大学設置に関しては、もとより教育にかける情熱のほかには、潤沢な資金も、広大な用地も、豊富な人材も何もなかった。理事長としての斌助師父の仕事は、愛校預金や寄付金の募集などによる資金の調達に始まり、用地取得、校舎建設、教員組織など、まさに一からの大学づくりであった。
このように、学校運営に向けた斌助師父の働きは大きなものであったが、「桃山学院には、他の私学のように貢献を果たした特定の人物がいるわけではなく、神の恩寵によってのみ導かれてきた。そして、理事長や校長は御心に従うことを望んで肉体的にも精神的にも奉仕し、堆肥として死んでいった」という創立80周年のメッセージは、個人の業績や名声を残すのではなく、まさに一人のキリスト者として教育を通して神に捧げる人生の理想を自ら語ったものといえるだろう。
7 松蔭女子学院での働き
松蔭女子学院との関わりについて見ると、斌助師父は1940(昭和15)年9月に理事長となるが、戦時政策によって教会関係者が学校の要職を兼務することが禁じられたために一時その職を離れる。しかし、第二次世界大戦直後の1945(昭和20)年9月に授業の再開とほぼ同時に理事長に復帰し、復活なったキリスト教教育に力を入れるとともに学園の復興を進める。やがて、1947(昭和22)年に新制の松蔭中学校が設立され、1948(昭和23)年に松蔭高等女学校は松蔭高等学校となり、翌年に松蔭短期大学の認可を申請して1950(昭和25)年に松蔭短期大学が開設された。
この時期は、戦争によって被災した校舎の再建が最も重要な課題とされていたが、当面の校舎が再建されるとその後は体育館、図書館、さらに鉄筋校舎など新たな建設のために、斌助師父は理事長として資金の確保や建設会社との折衝にも忙しかった。戦後政策の一環として封鎖された法人の預金から建設資金を支払う許可を大蔵大臣に申請したり、日本聖公会主教会とアメリカ聖公会伝道局長との協議において桃山学院、香蘭女学校とともに経済的援助を引き出したりした。そして、1950年10月には、三笠宮殿下をお招きして松蔭短期大学の校舎の定礎式を開催した。この定礎式における岸田幸雄兵庫県知事や原口忠次郎神戸市長らとの談話のなかで「次は何をしたいですか」と尋ねられて、「男子の学校をつくりたい」と答えて、後の八代学院の構想が明らかになるのは有名なエピソードである。
その後、八代学院の構想と併行するように四年制の松蔭女子学院大学が垂水の地で歩み始めるのは1966年4月のことであった。理事長であった斌助師父が初代の学長となり、英米文学科、国文学科に加えて、聖公会の聖職を養成するためにも貢献したキリスト教学科の3学科の体制で、女性の社会進出などを背景に急増する進学者を受け入れた。
8 八代学院の発展 ー垂水の学園ー
経済成長の到来とベビーブーム世代の成長に伴って、社会は高等学校、大学、短期大学の入学定員の拡大、学部の増設、大学、高校の新設を求め、聖公会関係の諸学校も、社会のこれらの要求に応えるべく発展、拡大に向けての準備を進めた。斌助師父は、桃山学院大学、松蔭女子学院大学の拡大を実現するとともに、ついに自らの念願だった八代学院高等学校を1963(昭和38)年4月に設立し、高等学校卒業生の一つの進路として、また国際的に活躍する人材を育成するために八代学院大学の設立を図る。
大きな社会問題となりつつあった進学者の増加について、「何があっても中学浪人を出してはならない」という斌助師父は、自らが学校を設立することでこの問題に対応し、また「クリスチャンスクールに対する社会の期待に応えなければならない」と、神の愛を教育に実践するために祈りをもって男子の学校を垂水の地に建設することを決心した。
斌助師父と志を同じくする人々が集い、設立に向けた学院の教育理念として「聖公会キリスト教に基づく全人格教育」を根幹に、「国際的に活躍することのできる人材の育成」、「よりよい生活を目指した全生活教育」などを掲げた。そして、八代学院高等学校は、山を切り拓き、煉瓦を積み上げた信徒や学生をはじめ、国内外の数多くの人々の貴い奉仕と熱い祈りによって、1963年4月に199名の新入学生をもってスタートした。すでに始まった授業と並行して、その後も校舎や体育施設の建設、チャペルの改装などの整備が続けられ、徐々に学園の姿が整ってゆくのであった。
このように歩みだした高等学校に続き、ほどなく聖公会キリスト教主義に基づく一貫教育の次の実践として、大学設置の準備が進められた。高等学校に始まった八代学院は、新しい高等教育の可能性、地域社会への貢献を念頭に、広く社会の要請、また高等学校の生徒の父母の要請に応えるべく、それまでにはなかった大学を構想していたのである。
ところが、八代学院大学は当初は「人間学部」として設立を準備するものの、当時の文部省の認可を受けるに至らず、またその後「社会福祉学部」として準備を続けるが実現を見なかった。「地域社会との協同」、「社会を開く人間開発」などを掲げるとともに、生涯教育の礎ともいうべき「成人大学」をはじめ、学生・生徒との関わりにおいて不可欠なカウンセリングセンターや附属研究所の併設などの構想を掲げた斬新な「人間学部」であったが、いささか時代の先を進んでいたのか、当時の社会はその趣旨を理解し得なかったようである。さらに、経済成長の著しい日本の社会にこそ、将来を見据えた「社会福祉学部」が相応しいはずだったが、時代は気づかなかった。
そこで、「経済学部」として申請して1968年2月に認可を受け、同年4月ようやく八代学院大学は開学に至ったのである。斌助師父は、八代学院大学の開学に至るまでの苦難を覚え、何としても実現させなければならない使命だと感じていた。それだけに、認可を受けた際の喜びは「難産だったが、ついに生まれた」と、設立の母体であった高等学校が「よく頑張ってくれた」と感謝するとともに安堵の気持ちを述べている。
「垂水の山」開拓から高等学校の設立まで12年を経て、大学の設立まで17年の道程であった。悲願だった八代学院大学はこのようにして誕生し、1968年4月20日に神戸聖ミカエル大聖堂に44名の新入生を迎えて第一回の入学式を行った。
当初の入学者数こそ多くはなかったが、間もなく経済学部に経済学、経営学、貿易学、観光学のコースを配し、国際都市神戸から世界で活躍する人材を輩出する大学へと成長してゆく。斌助師父は、自らが手がけた学院を高等学校、大学に止まることなく、将来に向けて社会に開かれ、社会とともに歩む総合的な学園として発展させたいと考えていた。聖公会キリスト教に基づいた「全人格教育」、「全生活教育」を実現しようとした壮大な構想は、国際的な理解や感覚を伴って社会に貢献する若者にかけた期待と祈りそのものであった。斌助師父の青年時代がそうであったように、「人材を育てたい」という一貫した思いに支えられていた。そして、「垂水の山」を拓いた人々との共同生活、「垂水の学院」の建設のために集まった国際ワークキャンプの日々は、一つの証であったといえるだろう。残念ながら、斌助師父は八代学院大学から卒業生が巣立ってゆく姿を見ることはなかった。しかし、教育に懸けてきた情熱を支えた斌助師父の心は「神を畏れ、人を恐れず、人に仕えよ」という建学の精神として、現在の神戸国際大学ならびに神戸国際大学附属高等学校に受け継がれている。
「八代斌助の思想と行動を考える」神戸国際大学経済文化研究所叢書⒐より
八代斌助と教会
ー教会に輝いた巨星ー
日本聖公会創業の難事をなし遂げた聖徒的主教ウィリアムス師に始まったこの人物史を日本聖公会が産んだ人物中でもスケールの最も大きかった人と思われる八代斌助主教をもって結びたいと思う。
大久保主教は八代主教の葬送式説教に「巨星地に落つ」と述べたが、実に師は日本聖公会のみでなく、また世界の教界に輝いた巨星であった。
八代主教の父親欽之允司祭は、函館伝道学校に学び、明治33年に十勝南部の茂岩に赴任したが、主教はこの年函館で誕生したのである。欽之允師はこの長男の将来に大きな期待をよせて「みやびてさかんなり」という意味の「斌」という字を名前にとり入れて「斌助」と命名した。
「どうだい、俺の名は、文武両方を備えたいい名だろう」と八代主教はこのむづかしい字の名前をいつも誇りとしていた。少年時代から立派な体格と怪力の持ち主で、いつも仲間のうちでのガキ大将であった。釧路中学時代に、折しもその地に巡業してきていた名力士三杉磯が、八代少年にスカウトを試みたというエピソードが残っている。
その頃から釧路の管理長老であった伊東松太郎師は「斌の馬鹿野郎」とどなりながらもこの少年を愛し、中学卒業後函館に呼んでラング師の秘書に推薦した。師の感化を受けて献身を志した八代主教は師を「自分の魂に食い入るような印象を与えた恩師」として深く尊敬している。
大正7年釧路中学を卒業し上京して立教大学に入学した。しかし北海道の広い天地に育った自然児には都会の学校の生活はなじみにくかったであろう。在学中両国の相撲部屋に通ったりしたが、大正9年同校を中退して中国大陸に渡り、山東省チンタオ(青島)に赴いて種々苦労をした。翌10年北海道旭川歩兵連隊に入営して陸軍少尉に任官した。
除隊後神戸地方部の伝道師補に任せられ、姫路顕栄教会に赴任した。昭和2年7月師は英国に渡ってケラム神学校に学んだが、ここでファーザー・ケリーから深い霊的感化を受けた。青年時代伊東司祭から徹底した福音主義の精神を受けついだ師は、ケリー師父から固い聖公会の信仰と深い心霊宗教の真髄を学んだのである。
昭和4年10月帰国して須磨ヨハネ教会の牧師となり、伝道に専念するかたわら「主イエス」「聖ペテロ」を執筆した。ことに前者は主イエスに対する信仰と愛慕の情にみちた名著である。昭和6年10月聖ミカエル教会牧師として招聘された師は最後までこの教会の牧会、伝道に心血を注いだのである。
この頃から「八代長老」の名は神戸地方部の型破りの青年聖職として全日本聖公会に知られるようになった。また地方部内でも重きをなし昭和6年以来常置委員長となり、バジル主教の片腕として活躍した。開襟シャツに半ズボンという姿で青年達の先頭に立って日本聖公会全国青年連盟を指導したのはこの頃である。
昭和12年以来わが国に戦争色が濃くなるにつれて教会にも種々の圧迫が加えられた。バジル主教も遂に離日を余儀なくされるに至って、次代の教区主教として八代司祭が選ばれた。昭和15年9月29日神戸ミカエル教会で神戸地方部補佐主教として聖別された。
太平洋戦争勃発と共に師の身辺は多事となった。予備少尉であった師は在郷軍人分会長、翼賛壮年団長、警防団山手分隊長などを命ぜられたが、こうしたうちにも嵐の中に立った教会と窮地にあった在神戸敵国人保護に奔走した。
一方政府が強要した聖公会の日本キリスト教団への加入ーいわゆる教会合同運動に対しては厳として非合同の立場をとり、迫害の身に及ぶのを覚悟して動かなかった。ために「八代は国賊である。逮捕せよ」との内命が出て、一時憲兵隊に召喚留置されたこともあった。しかし師が佐々木、須貝両主教のような受難から免れ得たのは、昭和19年に鳥取部隊に召集され、翌年部隊長として朝鮮に派遣されたためであったといえよう。
終戦と共に主教としての師の目覚しい活躍が始まった。まず戦争中の教会分裂の傷手を医するために奔走し、教団加入の聖職の復帰に努めた。23年にはマッカーサー元帥の特別許可を得て、戦後最初の海外渡航の民間人としてロンドンで開かれたランベス会議に出席し、後アムステルダムの世界教会会議に出席した。その際イギリスの国王ジョージ六世あての天皇のメッセージを伝達し、またテニス・デヴィス・カップヘの復帰や講和会議の下準備などに尽力した。
昭和24年には、ワシントンの極東委員会のマコイ議長の依頼をうけて、フィリッピンや香港の日本人戦犯を訪問した。さらに翌年には当時まだ対日感情の好転していないオーストラリヤやニュージーランドを訪問して、親善使節の役割を果たした。その後もたびたび外遊して、民間人としての立場から日本の国際的地位の向上に努めると共に、海外伝道のためにも貢献して「日本の八代」としてよりも「世界のヤシロ」として知られ、「空飛ぶ主教」といわれた。
昭和32年に英国が最初の水爆実験をクリスマス島で行おうとした時、ときの岸首相から実験中止を訴えるために政府の特使として赴かれたい、と懇請されたが、「私か出かけたところで、本当のお役に立てるような事態ではありません。国民の悲願を訴えるために私に立てとおっしゃるのならば、どうぞ一隻の漁船で私をクリスマス島に送って下さい。命をかけて使いする、これこそ宗教家の本懐です」と切々の真情を吐露した。そして諸般の事情でこれが実現不可能になった時、かわりとして当時の立教大学総長であった松下正寿氏を推薦した。
師は教会再一致を目指すいわゆるエキュメニカル運動には非常な熱意を持っていた。日本キリスト教協議会(NCC)副議長、日本聖書協会副理事長を永年つとめ、晩年反対も少なくなかった万国博キリスト教館会長を引き受けたのも教会再一致の願いをそのうちに込めたためと思われる。
43年の頃から健康を害したがなお教区内外の宣教活動に席温まる閧もない活動を続けた。45年故郷北海道に巡教する頃から腹痛をおぼえ、9月神戸中央病院に入院、癌性腹膜炎と診断された。主教聖別三十周年感謝礼拝には自ら録音でメッセージを述べ、見舞の友一人一人に祝福を与え、10月10日の早朝天に召された。13日聖ミカエル大聖堂で日本聖公会葬として葬送式が営まれた。参列者二千名を数え、一般告別者の列は二時間も続いて絶えなかった。式中、正四位勲二等の旭日重光章が使者によって霊前にもたらされたのも印象的であった。
八代主教は一言で言えばたぐいまれな大きい人物であった。「彼は大きかった。その人柄の大きさは、キリストの人柄の広さ、長さ、高さ、深さを内に抱いた大きさであった」と大久保主教は語っている。また日本キリスト教団総会議長の飯清氏は主教との最初の顔合せの印象を、「主教の豪快な笑いに合って、横綱につきとばされた取的よろしくすごすごと引っこみながら『スゲー豪傑だな、とても教団にはこんな型破りは住めないだろうな』と思ったことでした」と記している。
主教の大きさは驚くべき抱容力と、誰に対しても細かな心遣いを忘れないところにあった。主教の周囲の人は誰もが自分が一番愛されているという気持を持った。「先生の周囲にはいつも暖い空気が漂っていて、たとえ先生に背を向けても背中を暖められるような暖かさを感じるのでした」。と一教師は言っている。配下の教役者の住居がなかった時には、教会の青年達に手伝わせて自分で大工や左官の仕事をして家を造ってやったというようなことも一度ではなかった。
主教には気取りがなく、酒席では「王将」や「カチューシャ」を歌って誰とても談笑し、少年時代に知った靴直しの爺さんの臨終に会っては大声をあげて泣きながら死水を取る主教であった。11人の子福者であったが、末息子の武君が原因不明の病気で入院した時次々と病床の息子に書き送った愛情に溢れた手紙の集録が師の最後の著書「今を生きる」となって残っている。
主教のこの大きさはどこからきたのか。それは主教が聖書の教える愛と寛容と和解の精神に生きたところからではないか。「赦し、赦され、愛し、愛される者となること。これこそが大切なことだ」。とは主教が常々人に教えた言葉でありそして主教の最後の言葉でもあった。
「あかしびとたち」日本聖公会出版事業部 昭和49年7月発行より
学院創立者をもっと知るために
・回想の八代斌助 八代欽一・山口光朔編 法律文化社
・跪くひと八代斌助 永田秀郎 春秋社
・八代斌助の思想と行動を考える 桑田優他 ミネルヴァ書房
・八代斌助講演集「第一巻」 八代斌助 奇峰社
・八代斌助著作集 一巻~八巻 八代斌助 川島書店
・Looking Back Ten Years Michael H. Yashiro (自家出版)
・創立者八代斌助師父の思い出 神戸国際大学資料第2集 神戸国際大学出版部
・ミカエルの友 創刊号~一八三(終刊)号 田中印刷