中村 智彦 先生【専門分野:地域経済論、中小企業論】

 

ゼミ生にたくさんのキッカケを作っているだけでなく、『世界一受けたい授業(日本テレビ系列)』などメディアにも多数出演している中村先生ですが、大学で働く前は国内外問わず幅広い仕事をされてきました。先生自身「周りのおかげ」とおっしゃいますが、常に仕事に対する工夫や信頼関係を築く努力をされていました。今回、そんな中村先生の学生時代から今の仕事に出会うまでのキッカケをお聞きしました。

どんな学生時代を過ごされたのですか

最初は、高校の先生になりたくて文学部を目指しました。私が進学した大学もキリスト教主義の大学で、学年を超えて学生同士の仲が良く、アットホームな雰囲気の大学でした。クリスマスの時期には社会人となったOB・OGがプレゼントを持ってきてくれたり、先生の部屋で勉強していると仕事終わりの先輩たちが現れて、ご飯に誘ってくれていました。日頃から大学の同級生だけでなく社会人の方と接する機会があり、それを楽しんでいたのを覚えています。
私の卒業した大学には少し変わった制度があり、3年生からは自分の所属する学部のゼミの他に、他学部他学科のゼミに所属することができました。私は、外国語学部のカンボジアにある世界遺産アンコールワット研究の第一人者である石澤良昭先生のゼミに入れていただきました。日本人だけでなく、たくさんの留学生も受講しているゼミでした。そのような国際的なゼミで勉強していたので、その頃から海外で働くということを意識し始めたと思います。
サークル活動として中国文化研究会に入っていました。仲良くなった中国人留学生の友達にコーディネートをお願いして、北京・西安・上海をめぐったことは、とても良い思い出になっています。1986年の中国は高層ビルも少なく、今とはだいぶ違った環境でした。名所を観光して食事を楽しむだけでなく、地元の人たちの生活を感じることができました。また、旅の途中に困ったことがあると助けてくれる中国人にもたくさん出会うことができました。旅を通して得たものはとても多く、そのような経験ができたのも現地出身の友達がいたからだと思います。ですので、神戸国際大学の皆さんも留学生の友達と一緒に国内外を旅行して欲しいなと思います。

最初の就職先はエアラインとのことですが

海外を意識する学生生活を過ごしたので、卒業後は高校教員になる夢から「英語を使って海外で働きたい」という考えに変わっていきました。仕事で英語を使える職場を探し、エアライン企業であるタイ国際航空の貨物部門に就職しました。当時、外資系エアラインの採用は中途採用ばかりでした。運よく、当時の総支配人が「新卒でも良いではないか」と言っていただいたおかげで入社することができました。

旅客部門の仕事と違い、貨物部門は言葉も話さず、自分では動いてくれない荷物が相手ですから、何か問題があった際に荷主、貨物代理店、空港や運航のスタッフなどと頻繁にやり取りが必要です。英語を使ってのやり取りになりますので、航空会社の中でも頻繁に英語を使用し語学力を上げることができる場所だったと思います。航空会社は、旅客だけではなく、貨物も輸送し、利益を上げています。私の仕事は、貨物代理店に営業を行い、世界各地に送る荷物をタイ国際航空のネットワークで引き受けることでした。
新人は貨物取扱需要の多いメイン路線を担当しません。私は需要の少なかった路線の営業をしていましたが、できるだけ売上があがるように必死に考えました。例えば日本からオーストラリアの直行便は便数も限られており、価格も高額でした。そこでバンコクを経由するサービスを提供し、到着までの時間はかかりますが、割安をウリにして営業をかけました。ただ代理店に直行路線の提案をするだけでなく、経由便でも大きな時間差が生じないような提案をすることにしました。こうした考えをロジスティクスと言います。荷主が必要とするタイミングに目的地で渡すことができるように、貨物代理店と一緒に考え、提案することは非常に刺激的でした。
貨物・物流の面白いところは、世界の情勢などが貨物の輸送状況を見ればわかることです。トラブルが起きる前には先に輸送しておきたいですから、戦争や有事の起きる予兆もわかります。また製品を作る素材の輸送量の増減により、その業界の売り上げの増減を予想することもできます。世界の動きを感じることができる、とても楽しい業界でした。 働いている時に、ちょうど湾岸戦争が勃発し、運航休止や延着など各航空会社では大きな問題に直面しました。私の担当していた代理店の方たちは、「顔を出さなくてもいいから、最新の情報を絶えず知らせて欲しい」と言いました。問題がまさに目の前で起こっている時には、最新の情報が重要になるのだと学ばされました。

初めてのバンコク本社での研修。飛行機に乗ったら、そこからはたった一人。一週間、日本語は全く話さず。しかし、とても楽しくチャレンジングな毎日でした。今でも当時のクラスメイトとは連絡を取り合ってます。(1989年3月) 

座席欄にCOCKPIT(コックピット)と書かれた飛行機の搭乗券。当時は満席時に機長の英会話テストをパスすれば、コックピットの空いている席に乗せてもらえました。今ではテロ対策などで社員でも乗せてくれません。当時を思い出すことのできるこの搭乗券は、今でも宝物です。

そのあと、転職されて海外勤務したとのことですが。

航空会社での仕事は楽しかったですが、海外で勤務したかったので転職を決意しました。当時は、外資系航空会社勤務では、原則、海外転勤はあり得ません。海外出張や研修で自信をつけていたので、自分を試すために海外駐在を希望したのです。
そのため、海外駐在を前提に、株式会社PHP研究所へ転職しました。当初、営業での採用となり東京で勤務を行いましたが、海外赴任前に海外事務所での総務マネージャーになることが決まり、本社で総務と経理を6か月ほど担当しました。東京では、営業部門のチーフとして勤務していたのものが、本社の経営管理本部で内勤の仕事なり、周りからは「元気がない」と心配されました。しかし、経営管理本部での仕事は経営幹部への登竜門と言われており、後々にここでつらかい思いをしながら学んだ知識や経験が役に立ったなと気づかされました。
 シンガポールは、小さな支社でしたが、そこで総務マネージャーの肩書をもらい、総務の業務全般を担当しました。当時としては最新のコンピューターシステムを導入するなど、毎晩一人で深夜まで残って仕事をする経験もしました。しかし、本社や系列企業であるシンガポールの企業の方たち、航空会社時代の友人などとの交流もあり、充実した毎日を過ごしました。現在、中小企業経営に関して、経営者の方とお話ができるのも、この時に総務や経理に関して実務を通して学んだことが役に立っています。

研究職を目指したキッカケを教えてください

シンガポールでは、多くの顧客や系列企業、自社スタッフなど多くの外国人と一緒に仕事をしていました。その中で、働きながらも大学院に進学し、修士号を取る人が多いことを目の当たりにしました。彼らから「修士号を取得できれば、会社の中でポストも約束され昇給もある。なければ昇進も昇給もなくなってしまう。」という話を聞きました。そういった考えを聞くうちに、これから国際的な仕事を続けていくためには修士号が必要だと考えるようになりました。
当初は会社に在籍しながら大学院に通うつもりでした。ですが、1993年バブル崩壊後でしたので、その機会はなくなってしまい、退職して名古屋大学の大学院に進学することにしました。修士号取得後には、前職や一緒に仕事をした会社から声をかけていただきましたが、指導教官の勧めもあり、大阪府の産業開発研究所で公務員として、中小企業の経営や経済を研究する専門職員として勤務しました。職場で研究を続けながら、博士課程を修了することができ、名古屋大学大学院で博士号を取得しました。研究所では大阪府内の工業振興と発展のため、企業向けの研究と支援を行っていました。博士号を取得し、仕事の幅が広がり、色々な地域やそこにある企業の支援をしたいと考え大学教員への道を進みました。

先生の研究室には産業の歴史を感じさせる小物がたくさん置いてありました。

先生のゼミはどのようなことをされているのですか

私のゼミでは、「4年間で何かをやってみよう!」をテーマに、できるだけ学生にチャレンジしてもらうようにしています。具体的には、自治体などが主催するビジネスプランなどのコンテストに応募してもらうようにしています。応募までは促しますが、私はサポートのみで、後は自分たちで頑張ってねというスタイル。学外のコンテストでは自分たちのプランに対して、さまざまな形で評価がされます。他大学の学生たちとの厳しい比較や競争があります。それが本人たちの励みになり、さらに自信がついてくるようです。これまでに兵庫県、神戸市、愛知県などの学生コンテストに出場し入賞しています。

また、学生には現場を見ることを大事にするように指導しています。学生たちは仮説を立てているのですが、現地に訪問すると自分たちが考えている以上の問題点やギャップに気が付いて、初めに考えていた内容がすべて吹っ飛ぶんです(笑)。そのショックを経て、もう一度考え直すプロセスはとても良いことだと私は思います。こういった経験から自分たちで考え、ブラッシュアップしたものを発表提案できる力がつくと考えています。そのため、私のゼミではフィールドワークを大事にしています。

フィールドワークで一番お世話になっているのは山形県の川西町です。12年間学生を夏休みに学生たちにインターシップにいかせています(2019年12月時点)。インターシップといってもあらかじめ決められたプログラムではなく、先方の課題を見つけ出すところから始まる課題解決型のプログラムです。日本人の学生だけではなく、留学生も参加し、先方から高い評価を受けています。学生たちは卒業してからも川西町のみなさんと関係性ができていて、休みの日に旅行がてら訪れ仕事を手伝いにいったり、結婚報告をしにいったりとしているようです。ずっと関係が繋がっているのはとても良いなと感じています。

卒業生との思い出はありますか

学生たちの希望がある場合は東京合宿も行っています。企業やテレビ局見学など私のできるサポートはしていますが、自分たちで旅行日程・宿泊先・見学先など決め、予約も入れていきます。プランニングが初めての経験も多いようで、卒業後もそれぞれ強く印象が残っているようです。
神戸国際大学は留学生も多く、ゼミでも日本人と留学生が一緒に学ぶことがあります。ある年は韓国からの留学生が在籍していたので、ゼミ生たちで韓国旅行を企画しました。日中韓の学生たちと一緒に韓国の街を視察したのは、楽しい思い出です。また、ゼミ生の一人は卒業後に名古屋大学の大学院に進学し、「教え子」だけではなく「後輩」となった人もいます。このように小規模大学ながらも、さまざまなバックグラウンドをもつ学生たちが集えるのが神戸国際大学の魅力の一つだと思います。

教え子のみなさんにメッセージをお願いします

在学生のみなさんには悔いのない4年間を過ごして欲しいと思います。また卒業生のみなさんは、卒業生同士(留学生も含めて)交流を持ってほしいと思います。卒業生には企業経営者の方も多いですし、留学生のみなさんも日本企業で活躍している方も多いようです。ぜひ卒業生同士で新しいビジネスチャンスを生み出すことを期待しています。

 

(記事内容は取材当時のものです。)

新着インタビュー